( くどいですけど・・・ )
-- NHK「SONGS」2016/09/10 放送より --
■吉田拓郎初めてのテレビ出演
桑子アナウンサー「昔はテレビにあまりお出に・・・」
『でませんでした。はい。』
「それはどういう理由からなんでしょう。」
『東京へ出てきて 一番最初に あの僕がテレビに出演した番組ってのがあるんですよ。
ある歌番組で。』
『ギター片手に行って、オーケストラをバックに歌うことになってたんです。
それも初めてだったんです。』
『そんなことしたこともないのにいきなり練習で、リハーサルで 歌い始めた。』
(ギターストロークの手振り)
『当時 歌が3番まであるとしたら2番、3番は抜いて、1番からサビへいって終わり。
1分半か2分半に曲を縮めてあるんですよ。そういう風に編集 あの アレンジがされてるんですね。』
『それ知らないんですね。 だからフルコーラス歌うつもりでずっと歌ってると後ろ(オーケストラ)とズレて来るんですね。』
「そうですよね」
『そのズレた僕を(司会の)Fさんが 観ていて「バカヤロー」(指を差すポーズ)とおおきい声で 怒られ お怒りになって。「なにやってんだ。」 すごい すごい剣幕で怒られたんですよ。』
『あん時に ま 怖いっていうのと それと同時に芽生えたのが「何だコノヤロー」っていうのが・・・ははは』
「そうですよね。」
『分かんないじゃないか 説明しなきゃって言うのがあるのに、説明はないわ、なんだで。「バカヤロー」とは 何だコノヤロー出て来い っていう・・・。』
『(スタジオのスミを指差して)暗いところから言ってる訳だから スタジオでね。』
『暗いところで言ってないでこっちの 明るいところへ出て来い、この野郎。誰だテメェは っていうような気分になっちゃった。』
『そこからねぇ 「テレビは出ない、取材は受けない、俺は俺の道を進む 」っていう感じになっちゃったんです。』
■吉田拓郎はホントに知らなかったのか?
このテレビ初出演の吉田拓郎青年をバカヤローと怒鳴ったFさんというのは、番組の司会をしていた歌手の布施明氏です。布施明氏からは30年後に正式に謝罪があったそうです。
また、吉田拓郎氏が紅白歌合戦の出演を拒否した際は布施明氏が出るから拓郎は出ないというウワサでした。
ところで 当時 小学生の僕でもテレビの歌番組で2番、3番を歌わないのは気づいてました。 ホントに歌を編集しているのを知らなかったのか、そこは疑問です。
それより そのころ「自分の歌は1曲全部でひとつのメッセージで、1番だけではメッセージが伝わらない、だからフルコーラス歌えないテレビには出ない。」という内容の雑誌記事を読みました。カッコ良かったですねぇ。
とにかくここに 我らの吉田拓郎が誕生したのです。
■吉田拓郎を観たくなったらコンサートに行くしかない
「あまり公に 出ない、こうなにか 謎めいたところも またみんなが拓郎さんを追い求める・・・」
『ですね。』
『だから 吉田拓郎を見たくなったら コンサートに行くしかない んですよ。』
「そういうことですね。」
『その会場に来たひと 若者たちは そこで僕と会話し 歌を聴いて客席からいろんなことを言ったりして(会話の)キャッチボールをするっていう世界が当時出来上がっていくんですね。日本に。』
■吉田拓郎が流行歌の世界の元気をなくさせた?
『で、そのことによってテレビで歌われている歌はインチキだって言う風に若者たちが思い始めて・・・。』
「インチキですか。」
『えぇ。 いわゆる流行歌の世界っていうのが あの 少しこう 元気がなくなっていく
それで当時で云うとフォークソングとかロックとかいう連中 若者の音楽が力を持ち始めるという時代だったんですけどね・・・。』
♪ マークⅡ(リハーサル)
[デビューシングル『イメージの歌』のB面 問題の歌番組で歌ったのがこの曲 ]
♪ 落陽(1973) (リハーサル)
[ テレビを拒否しライブ活動に力をいれた拓郎がアルバム『よしだたくろうLIVE'73』で発表した名曲 ]
♪ 全部抱きしめて
(フジテレビ「Lovoloveあいしてる」より)
番組開始から11分20秒ほどまだ半分です。
このあと 50歳でテレビにレギュラー出演した話に続きます。
→ 吉田拓郎「SONGS」50歳でテレビにレギュラー出演した話
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貞清昭夫